長いリハビリ病院入院生活の意味するもの 重い後遺症
脳梗塞を発症した人の中でリハビリ病院でリハビリをする人は
1ヵ月から3ヶ月迄に多くの人が退院していく。
夫のように4ヶ月以上も、5ヶ月半も長くいる人は少ない。
長くいる事を希望した訳ではない、
病院側でもう少しいた方が回復が目指せるというとだった。
それだけ夫の後遺症は重かったという事です
この頃になるとはじめの頃に会った人と
顔ぶれがずいぶん変わってきている。
意気投合した同室のまだ30代の若者は脳梗塞ではなく、
小脳の方の疾患だという事だった。
さらに回復を求めて国立病院に転院した。
もう1人は50代の男性で自営業で、歴史に詳しく
夫は教授とあだ名をつけていた。
その彼が明日が退院だと楽しみにしていたのに、前日の明け方、
病室で持病を再発
救急車で系列の急性期病院に運ばれたが
さらに大学病院に搬送されたという情報が耳にはいった。
命の危険があるほどの重症だと聞いた。
彼はこの病気を発症してここのリハビリ病院にきたとの事。
彼は歩ける人であった。stやOTを主に受けていた。
Iさんとはいつも夢を語り合っていた。
Iさんと愛娘とそして私たち夫婦でお洒落をして帝国ホテルの
ラウンジでお茶をしましょうという事だった。
それを励みにお互いリハビリを頑張っていた。
その後彼はどうなったか知る事ができないが、
夫婦2人だけでもこの夢は叶えたいと思っている。
この夢を叶えるということはそこまでいけるように回復をするという事
であるが、現実はなかなか厳しかった。
思い通りに進まない回復
この頃になると帰宅してからの生活のことも考えた
訓練も取り入れられるようになった。
お風呂の訓練では湯船につかるリハビリを行った。
ところが麻痺した足が湯船の中で、ビューンと伸びて
曲がってくれないので、湯舟に入る事ができない。
夫はこの事がとても悔しくて情けなくて、病室で
「なんでだよ!なんで動かないんだよ!動けよ!」と
自分の左足をゲンコツでバチバチ叩いて涙していた。
短下肢装具を履いて病院の周りを歩く練習もした。
見学をしたがその頃の歩行はとても厳しい状況であった。
健常者にはほとんど傾斜に感じられないところが、大きなハードル。
ましてや段差は足踏み状態をして意を決してやっと降りる。
歩き始めの赤ちゃんが段差を降りる時の様子に似ている。
麻痺側の左足が痙攣を始めてガクガクする。
そうなると歩く事はできない。
痙攣を起こしている足を押さえつけ、回復まで待つ。
私が最初に見学した時は歩行はとても無理だと感じた。
でも回数を重ねるにつれて少しづつ長く、
色々な道路の条件もなんとか歩けるようになっていた。
歩行が夫にとって全身全霊をかけた大きな運動であった。
だから短い距離でも大変に疲れていた。
このような歩行の状態なのと脳の損傷の具合から
リハビリ病院で屋内は自力歩行
長距離は車椅子を勧められたといって落ち込んでいた。
退院に向けてのスタッフ会議でも車を運転すると宣言
医者、看護師、PT OT 訪問リハビリのスタッフ ケアマージャのいる中で
退院後の会議が開かれた。
その時どんな事をしたいですかと聞かれた時、夫は車の運転できるようになりたいと言った。
その場に居合わせた人は私も含め、頭を下げ、聞いていた。
夢を否定する事はできないが誰も運転は無理だと心に思っていることが感じられた